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This web site is only compatible with Japanese text. 九七式中戦車の謎
はじめにこの記事は、当サイトの主要テーマからは無関係に近い番外編です。 今から 70 年以上前、陸軍には九七式中戦車なる戦車がありました。概要は次の通りです。
こんなところです。ちなみに列強の戦車とは比べ物にならないくらい弱いと言われますが、実際には、開発された時点では標準的な性能です。 開発後数年経ってからの戦車の急激な発展から見れば、弱すぎるように見えるのは確かですが、九七式中戦車は所謂「歩兵戦車」として開発された物です、それを対戦車戦に使えばフルボッコにされて当然な訳です。 大戦後半に九七式中戦車と対峙した米国の戦車というと、次のような性能でした。
目を覆いたくなるほど圧倒的な差ですが、同盟国である独逸の戦車は武装も重量も、もっと化け物です。 この様な差があるので、残念な事に戦場では九七式中戦車がフルボッコにされた訳ですが、第二次大戦当時の軍事に詳しい方々はその素晴らしい被害から九七式中戦車の性能を見て「先見の明がなかった」とか「なぜ改良しなかったのか」などと仰るようです。 しかし筆者は、輸送上の理由から陸軍はやむを得ない選択をした ( 交通インフラがあまりにも脆弱であった、さらに言えば国力の限界が有った ) と考えています。その理由を示していきたいと思います。 悲しいお金の話話を始める前に、国家における財政状況や予算も考慮しなくてはいけない事を書かなくてはなりません。お金を考えない夢物語ではどんな事も可能ですが、実際には縛りがあり実現したくても出来ない事も少なくない、という現実をお忘れなきようにお願いします。 現実の問題として、大蔵省と陸軍省の間での軋轢が指摘されています。また、第二次大戦へ近づくにつれて臨時日本標準規格 ( 臨 JES ) や戦時設計で見られる様に資材節約も強く要求されたので、これも忘れてはいけません。 なお、九七式中戦車がディーゼルエンジンを搭載していたことに関してディーゼルエンジンは重くて出力が低い欠点がある、と思われがちですがこれは単純にディーゼルエンジンのせい、とは言い切れません。 ガソリンエンジンと比較すると、ディーゼルエンジンは燃料噴射系を高圧にする必要があり、これに耐えるだけの構造にする必要から同一仕様のガソリンエンジンとディーゼルエンジンを同一水準で製造するとディーゼルエンジンの方が重くなる傾向は確かにあります。 しかしこの傾向は、燃料噴射系の圧力による変形に対して寸法公差の管理を厳密に行うことができれば目立たなくなります。戦前の日本の工業水準だと、ディーゼルエンジンを製作するには技術や経験の不足から変形に対する寸法公差を大きく見込むしかありませんでした。 なので、重くて出力が低い事についてはディーゼルエンジンの欠点、というより戦前の日本の工業力の限界が原因であると、お考えください。もし、発動機をもう少し小型化出来ていたならば比熱容量が小さくなりますから、始動性も良くなっていた事でしょう。 戦車を輸送したいまず戦車を設計するに当たり、輸送できることはほぼ必須と言える条件と思われます。 ( 当たり前 ) 第二次大戦当時の軍事に詳しい方々の方々の中には戦車などの輸送をどうするか討論する時、水上交通機関を語り始めて戦車揚陸艦や貨物船、港湾施設 ( クレーンなど ) をもっと整備すべきだったと結論づけて、そこで話が終わってしまう方がいらっしゃいますが、工場や基地、戦場は必ずしも海沿いにあるとは限りません、工場や基地から港湾まで、若しくは戦場まで輸送できる陸上交通機関も必要です。 陸軍省が鉄道省 ( 戦前の官庁。公共企業体である日本国有鉄道、所謂国鉄は昭和二十四年発足 ) に対して、線路の整備方針へ横槍を入れたりしていた事は知られて ( 例えば弾丸列車計画、戦後に新幹線として結実するアレの計画時には、有事に変電所を攻撃されても簡単に運行不能ならないよう、電化区間を抑えるように要請 ) いますが、これは当時の日本では陸上交通機関の主役が鉄道だった為に起きた事です。 もう少し踏み込むと、自動車が登場していない、または普及していない時期に、国策として輸送時間的に有利だった鉄道を国の直轄事業として優先的に整備し、道路については国道でさえ昭和五年までは原則として、国庫補助で地方公共団体に整備を行わせていました。 道路事情上記を読んだ貴方は、なぜ道路を整備しなかったのかと憤慨しましたね ? さきほど鉄道の整備を優先していた事は書きましたが、道路の整備が後回しになるには相応の事情がありました。例えば、戦後にワトキンスレポートが発表された時点でさえ、一級国道の約八割が舗装されておらず、施工不良や維持管理の不足から、悪天候時に通行不能になる事が多くありました。 時代を大正から昭和初期へ遡ると、国道であっても幅員が平均 1,800mm 程度で、幅員が 1,800mm に満たない、若しくは勾配が 5 分の 1 以上の場所が至る所にあり、河川を渡船等で渡る箇所が約 60 箇所あるなど、かなり酷い状況でした。これを完全に整備しようにも、整備すべき場所が多すぎて手に負えない訳です。 機械化と不況対策の人力施工道路の整備を迅速に進める為に、建設機械を導入して施工を機械化すればよいではないか、と思いましたね ? 工事に必要な建設機械は、ダムや水路など大規模な土木工事では明治中頃より海外からの輸入品が用いられるようになり、昭和初期までは機械化が少しずつ進展していました。 しかし、建築工事や中小規模の土木工事では機械の導入にかかる費用負担の問題が有った事、さらに昭和六年頃に世界恐慌による失業者対策として、官公庁が発注する営繕工事では労務費の比率をわざと大きくした事で機械化が後退した事などが影響し、結局、戦後になるまで人力施工が中心である事に変わりはありませんでした。 なお余談ですが、建設機械の呼称について戦時中は陸軍と海軍の間でそれぞれ異なる訳語を名付けていて、ブルドーザは陸軍では排土車、均土車等と呼び、海軍では押均機 ( おしならしき ) 、パワーショベルは陸軍では作壕機、海軍では掬場掘削機と呼ぶなど、陸軍と海軍どころか陸軍内部ですら呼称が統一されていない時期が有った、という笑い話が有ります。 乗用車も高価そんなに建設機械が高価と書くなら自動車はどうなんだ、となるでしょうが、当時は自動車も高価でした。手元に当時のカタログが無いため正確な価格は不明ですが、昭和十年頃の普通乗用車は当時の価格で国産車が 1,700 〜 4,000 円、輸入車が 2,500 〜 3,500 円程度と言われています。 これを現在の金額へ換算する事は様々な要因により困難ですが、同じ時期に財団法人同潤会 ( 関東大震災の復興を目的に、内務省が大正十三年に設立した住宅供給を目的とした組織。表参道にあった青山アパートなどは、とても有名 ) が、比較的中流階級の職工や勤人へ向けて販売した分譲住宅の価格が約 1,900 から 3,000 円程度でした。 他の事例へ目を向けると、安価な 500 円の住宅から、6,000 円程度の上流階級向け住宅まで有りますが、これを考えれば、自動車が如何に高価であったか分かると思います。 上記のように高価だと購入できる組織や個人は限られる訳ですから、生産台数も海外と比べれば少なくなります ( 量産効果による価格の低下や、それに伴う大衆への普及が起きにくい ) 。 昭和十三年時点の自動車生産台数を各国で比較すると、日本が約 15,800 台に対し、独逸が約 277,000 台、米国に至っては約 2,001,000 台です。戦前の日本では、昭和十五年に生産台数のピークを迎えますが、それでも 50,000 台程度です。自動車でさえこの有様でしたから、建設機械は言うに及びません。 普及を阻む運転の難しささらに当時、自動車などは運転が難しいものでした。所謂クラシックカーを所有しておられる方であれば分かると思いますが、始動からして大変で、今みたいに鍵一本でセルモータを回し、正確なタイミングでプラグがちゃんと点火して一発始動...とはならず、クランク棒を使って始動します。 失敗するとプラグがかぶって始動できないとかならマシで、最悪だとケッチンくらって骨折する事もあります。 ( セルモーターがなかった訳ではありませんが、当時の自動車の電装系は貧弱でしたのでクランク棒でも始動出来る技術がないと乗り回せません。 ) プラグだって今ほど性能が良い訳ではないので、頻繁な点検と交換が必要だったようです。特にかぶってしまった場合、発動機からプラグを外して掃除せねばならない事もあります。 余談ですが、当時の鉄道車両のうち気動車 ( 自走する動力源に発動機を用いる車両の総称 ) は動力源としてガソリンエンジンを用いていましたが、当時、国産プラグの品質が余りにも悪かったからか、国内産業育成の為に性能が悪くても発動機に国産を採用していた鉄道省ですら、プラグだけは独ボッシュ社製のプラグを指定していた、という逸話があったりします。 運転するにも当然 MT しかなく、シンクロメッシュなんてものも付いてないのでダブルクラッチで上手に転がさないと、すぐにエンストです。純粋な AT は戦時中に米国のメーカーにおいて開発されていて、日本に入ってきたのは戦後の事でした。 以上のような状況があった為に、道路の整備が後回しにされてしまいました。戦後、急速に道路が整備されたのはワトキンスレポートの影響が最も大きいでしょうが、建設機械の急速な普及や、自動車の扱い辛さが改善された上で安価に量産されるようになった事、ワトキンスレポート発表以後も自動車の台数が急激に増え続けていったという事実も、また道路整備に影響を与えたと言えるでしょう。 戦車を運べそうな貨車そろそろ話を元に戻して、鉄道輸送について。 鉄道で戦車などを輸送する際に考えられる貨車は、所謂、自衛隊機材輸送列車をご存じの方なら推測できると思いますが、長物車 ( 屋根無しの平べったい荷台の貨車 ) と無蓋貨車 ( 屋根無しでアオリ戸付きの荷台がある貨車 ) です。 ここで、当時の鉄道で使われていた貨車の形式を調べてみましょう。 当時の貨車として、長物車の一つに「チキ 1000 形」が、無蓋貨車の一つに「トラ 1 形」があります。これ以外にもありますが、九七式中戦車を乗せられるほどの貨車ではないので割愛します。 チキ 1000 形は昭和四年に登場した日本初の鋼製荷台を持つボギー車で、全長 ( 連結器の芯々間の長さ ) は 13,600mm 、支柱の根元を含めた全幅は 2,640mm で、荷台の有効長さおよび有効幅はそれぞれ 12,800mm、2,350mm です。形式の「チ」は長物車 ( Timber、木材 ) を、「キ」は積載荷重 25t 以上 ( チキ 1000 形は 35t 積み ) を表します。 トラ 1 形 ( 登場当初はト 35000 形、昭和三年の車両称号基準規程の改正でトラ 1 形へ改称 ) は昭和二年に登場した日本初の 17t 積み二軸車です。この貨車の図面は見た事がないので正確なのか不明ですが、全長 8,930mm 、全幅 2,740mm、荷台の有効寸法は長さ 8,130mm、幅 2,480mm だったようです。形式の「ト」は無蓋車を、「ラ」は積載荷重 17〜19t を表します。 ここで、先ほどの九七式中戦車の全幅を思い出してください。トラ 1 形の場合、荷台に対して 150mm の差しかありませんね。チキ 1000 形に至っては差が 20mm です。 積込時の誤差を考えれば、九七式中戦車は条件が許す限り幅を大きくしていたのです。なおトラ 1 形ですが、実はこの貨車、陸軍から野砲輸送の要請を受けて新規に開発された貨車だった様です。 貨車を大きく出来るのかじゃあ貨車をデカくすりゃ戦車もデカく出来たろ、というのは問屋が卸しません。 鉄道には線路があり、列車はその上を走行します ( 当たり前 ) 。走行する車両は、橋梁、隧道、プラットホームなど各構造物に衝突しないよう、予め設定された「車両限界」の制限を超えない大きさとしますが、この車両限界が戦車の大きさに関係してきます。 この車両限界、現在の法律では「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」の第六十四条により各鉄道事業者が設定する事になっていますが、かつては具体的に数値が定められていていました。注目すべき点は、具体的に定められていた数値について、国有鉄道と私鉄で違いが有った、という点です。 国有鉄道の場合、車両の全幅は明治三十三年制定の鉄道建設規程で 2,743mm と定められ、後の国有鉄道建設規程 ( 大正十年、鉄道省時代に制定 ) や車両構造基準規程 ( 昭和二十八年、国鉄時代に制定 ) では、2,850mm ( 厳密には 3,000mm ですが、プラットホームに接近する部分は基準制定前の施設との兼ね合いで、部分的に切り欠いた縮小限界と呼ばれる 2,850mm ) と定められていました。 一方、私鉄の場合、車両の全幅は大正八年制定の地方鉄道建設規程で 2,744mm と定められ、以降、昭和六十二年四月の地方鉄道法の廃止および普通鉄道構造規則への移行を挟み、平成十四年三月付けでようやく消滅するまで、この数値が維持されました。中には特別な認可を受けて、国有鉄道並みに車両限界を拡張していた私鉄もありましたが、それは特殊な事例です。 私鉄の数値が狭くても関係ないじゃん、と思われるかも知れません。しかし、国有鉄道と私鉄を跨いで貨物輸送する際、駅でわざわざ積み替えると膨大な手間が発生してしまう事から、貨車は鉄道省と私鉄の間で直通運転するのが当たり前の事でした。 ( いわゆる軽便鉄道とかは別ですが。 ) なので、大きくしてしまってはイザという時に私鉄線内が運べないんですね。 改修すればいいと思った方、平時に戦車の為だと言って、無数にある橋梁、隧道、ホームを全て改修出来る程の予算が組んで、かつ、人や資材を確保できると思いますか ? 橋梁はまだ良いですが、隧道を事前にもっと大きく掘削するとなるとこれまた大変な話で、今現在の技術でも、隧道は極力小さく、かつ不利な地層がある場所は短く掘削するものだったりします。 ( 無理をした鍋立山トンネルのカオスっぷりは、トンネル技術者の間では有名です ) なので、どこの隧道も車両限界に抵触しないギリギリの範囲で掘削してある訳です。 手元に資料が無いので断言できませんが、中央本線や身延線、飯田線などのいわゆる狭小トンネルも考慮すると、横方向だけではなく高さ方向の制限もかなり厳しかったのではないでしょうか。戦車の輸送とは話が異なりますが、身延線では昭和二十五年、トンネルの狭さが原因の一端となった列車火災事故が発生しています。 重くても大丈夫 ?じゃあ装甲を厚くすること位は出来たろ、というのも問屋が卸してくれそうにありません。鉄道と言うからには線路がある筈です ( 当たり前 ) 。その線路には実は「線路種別」という規格がありました。 現在は線路等級と呼ばれる線路種別ですが、鉄道省では特別甲線、甲線、乙線、丙線、簡易線と分かれ、軸重 ( 1軸辺りの重さ ) は特別甲線、甲線、乙線が 16t、丙線、簡易線に至っては 12t と設定されていました。 トラ 1 形に九七式中戦車を 1 両積載するとして、九七式中戦車の自重が 15t、先ほどのトラ 1 形の自重が 9.5t、足すと 24.5t ですね。これが全体の静荷重です。トラ 1 形は二軸貨車ですので、2 で割ると、12.25t。単純に言えばこれが軸重となる訳です。チキ 1000 形に九七式中戦車を 2 両積載したとしてもほぼ同じ程度の軸重になります。 ( 現実には静荷重のみではなく、動荷重も検証の対象でしょう。 ) なお、この記事の執筆当初に調べた範囲では、積載方法に関して信頼できる資料や写真を発見できませんでしたが、後日、八九式中戦車や九五式軽戦車については 1 両の貨車に 2 両積載している写真を掲載した資料 ( 資料自体は、千葉陸軍戦車学校のアルバムとされるもの ) を発見しました。もしかすると九七式中戦車も、積載方法は同様だったのかも知れません。 国有鉄道でも地方幹線では多少余裕がありますが、田舎の閑散路線では丙線規格である事が大半ですので、軸重的に見ると、実は多少無理をしていたのですね。線路種別を改善しようとした場合、枕木の材質、単位長さ辺りの枕木の本数、バラスト道床の厚さ、橋梁、橋脚、その下の基礎に至るまで、下手したら設計から全てやり直しです ( それ以前に、重量的には問題なくても貨車荷台の剛性の問題も有る事でしょう ) ですから、これ以上の装甲強化なぞ、望むべくもなかったのです。 それでも線路を強化しろ〜と憤慨して見てもどうにもなりません。橋梁や路盤はすべて線路種別の規格に基づいて設計されている訳ですが、それを強化したところでその下にある地盤の地耐力 ( いわゆる N 値 ) が耐えられるだけの数値でなければ、意味がないのです。 意味がないどころか、線路がとんどん地盤沈下します。 ( 線路が沈下すれば列車は脱線してあの世へ GO! ) 日本列島は欧州大陸と比べたら、地盤が緩いのです。 例えば東日本大震災で液状化を起こしたネズミーランドがある某市の場合、海岸近くの埋立地では GL 面から -50m でやっと N 値がそれなりに出るようです。某市ほど極端な例ばかりではありませんが、日本で都市が発達してるような場所は大体、地盤があまり良いとは言えないローム層か沖積層です。 地盤改良や杭打ちで数値を改善出来ますが、今と昔を比べれば技術的限界のレベルが違います。令和三年現在の技術では一般的に、地盤改良は GL-10m 前後、杭は 50m から60m 程度までは容易に対応可能です。 しかし先述した数値を超える深さとなると、いわゆる大深度工法と呼ばれるような工法を選択する必要が出てきて、費用はもちろんのこと、施工方法と実際に施工できる地盤の組み合わせが限定されたり、施工に必要な用地の確保や施工完了までの期間に考慮が必要など様々な制限が出てきます。 車輪を増やしても貨車の車輪を増やせば重量分散出来ると言っても、今度は貨車を牽引する機関車の問題が出てきます。貨車 1 両あたりの重量が増えてしまう事、走行抵抗が余計に増えてしまう事から、日本にはありがちな急勾配を登れなくなってしまいます。 登るためには貨車の両数を減らす、もしくは機関車を本務機以外に補機を連結するなどの対策が必要になります。 本務機、補機というのは、本務機が列車本来の機関車、補機が補助的に連結される機関車を指します。要は、機関車を何両か連結する方法です。ただし、この方法でも完全に問題が解決する訳ではありません。 なぜならば、連結器自体や台枠 ( 車体の枠の事 ) の強度に限界があるからです。力学を考えれば分かりますが、勾配区間では貨車や機関車の重量が、線路だけではなく勾配の下側にある連結器や台枠にもかかります。あまり無理に貨車を連結していると、何かの拍子に連結器や台枠の破損に繋がるのです。 この件で有名なのが所謂「走り屋」ご用達、碓氷峠での一件でしょうか。詳しくは割愛しますが、碓氷峠というのは鉄道にとっても険しい道です。ここを信越本線が通過していましたが、この区間をアプト式から粘着運転へ切替えるべく試験している最中に、連結器が破損した事故がありました。 これが原因で、所謂「横軽対策」が行われる事となりました。 道路でも変わらぬ事情上に記載した事が戦前での日本における鉄道輸送時の制限ですが、これは道路であっても同じことで、線路をアスファルト舗装へ読み替えればほぼ同様です。 ( 未舗装道路の場合は、路盤を砕石舗装へ読み替える。 ) 知ってますか ? 道路の舗装や路上にあるマンホールの鉄蓋は、通行する車両の重量によって必要強度が決まっています。 ( 港湾関係や防衛省関係では、舗装などの必要強度が桁違いだったりします。さらに、地面に埋まっているマンホールやハンドホールの鉄蓋や本体は強度やダメージコントロール、防諜の観点から汎用の国交省規格品ではなくて、専用の仕様のものが用いられる事があります。 ) 揚重機の話最後にとどめを刺すわけではありませんが、こんな話も書いておきましょう。 例えば、輸送船で前線に近い海岸まで九七式中戦車を運んできたはいいが、残念なことに船に陸揚げ用の設備が無いので、仕方なく陸上に有る揚重機 ( 戦前の日本では、クローラクレーンの様な移動式クレーンはごく僅かには存在した様ですが、基本的にはデリックを用いていた模様 ) を使って九七式中戦車を船から陸揚げするとします。 多くの方は揚重機の吊り上げ能力にのみ捉われがちですが、実際には吊り上げる重量以外にブーム長さ、作業半径などを検討して揚重機が倒壊しないか検討が必要で、15t の物を陸揚げするならば条件によりますが吊り上げ能力が 50t から 200t 程度の揚重機が必要になりますし、地盤が揚重機本体と吊り上げるものの重さに耐えられる必要が有ります。 地盤面へ鉄板や盤木を敷いて養生すれば何とかなる程度なら必要な資材を持ってくれば良い ( これも人力で動かせない大きさや重量なら、本設よりも小さい揚重機を別に持ってくる手間が増えます。 ) のですが、これが移動させる度に本体とブーム、カウンターウェイトを分解または組み立てる必要が生じたり、地盤改良が必要になったりしたら面倒な事になります。 陸揚げする対象が戦車なら分割搬入する方法も思いつくかも知れませんが、一度分解してしまうと発動機周りで異常振動が発生しない様に軸調整 ( 軸の芯出し ) や架台部分の調整など、意外と整備に手間がかかります。 おわりに以上が、戦前の戦車は輸送上の制限からやむを得ない選択をしたと考えている理由です。はっきり言って、戦車揚陸艦や港湾施設以前に陸上交通機関で問題が存在するのです。 ちなみに、戦後に 61 式戦車という鉄道輸送を考慮している戦車がありますが、鉄道輸送できるのは国有鉄道の、それも地方幹線くらいのレベルかつ、縮小限界よりも上側へ強引に持ち上げた状態でないと輸送できません。それも条件のあう長物車 ( チキ 7000 形など ) を用いた場合の話です、もっと自由に鉄道で輸送できるように考えるのであれば、大きさや重量を九七式中戦車程度にするしかありません。 鉄道輸送を前提とした場合、インフラの発達した現在でも大きさや重量の問題は解消されていません。ですので、検証する事もなく「先見の明がなかった」と批判するのは早計です。 ただ止むを得ない事情が有ったとはいえ、インフラ面の整備が追付いていないが故に結果として尊い戦車兵の人命がいたずらに失われた事は、大変残念な事です。 今後、このような残念な事が起こらない様、願うばかりであります。 おまけ貨車には大物車と呼ばれる、特に大型の貨物を鉄道で輸送する為に製作された車両が有ります。 大物車には構造毎にその分類が分かれており、現代では何れも発電所や変電所で用いるような大型の変圧器を輸送するのに用いられていますが、かつては昭和十二年に製作され神戸製鋼所が所有した、シキ 20 形 ( 50t積み大物車、貨物の積載方式は落し込み式 ) の様な大物車も有りました。 このシキ 20 形は、神戸製鋼所で製造した海軍向けの潜水艦用ディーゼルエンジンを造船担当の川崎造船所まで輸送するのに、兵庫県神戸市内にあった東海道線の貨物支線 ( 通称、神戸臨港線 ) の、小野浜駅と神戸港駅間で用いられていた様です。 なお、両方の駅は元々、それぞれ別の駅でしたが、時代毎に駅同士の合併や改称などで少々複雑な経緯を辿っています。また、戦前の一時期は旅客輸送も行っていた様です。よって、各種文献を読む際は注意してください。 参考文献
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