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九七式中戦車の謎


ほぼ当サイトのテーマ?とは無関係な、完全なる番外編です。

今から 70 年以上前、帝国陸軍には九七式中戦車なる戦車がありました。概要としては、

九七式中戦車
全長 5.55m
全幅 2.33m
重量 15t
主砲 一式四十七粍戦車砲 ( 口径47mm、48口径 ) 
装甲 前面25mm
発動機 三菱 SA一二二〇〇VD
空冷V型12気筒ディーゼル 170HP

こんなところです。ちなみに列強の戦車とは比べ物にならないくらい弱いと言われますが、実際には、開発された時点では標準的な性能です。

開発後数年経ってからの戦車の急激な発展から見れば、弱すぎるように見えるのは確かですが、九七式中戦車は所謂「歩兵戦車」として開発された物です、それを対戦車戦に使えばフルボッコにされて当然な訳です。

で、大戦後半に九七式中戦車と対峙した米国の戦車は...

M4中戦車
全長 5.84m
全幅 2.62m
重量 30.3t
主砲 37.5口径75mm戦車砲
装甲 前面76mm
発動機 Continental R975 C4
空冷ガソリン 400HP

目を覆いたくなるほど圧倒的な差ですが、同盟国である独逸の戦車は武装も重量も、もっと化け物です。

この様な差があるので、残念な事に戦場では九七式中戦車がフルボッコにされた訳ですが、軍オタな方々はその素晴らしい被害から九七式中戦車の性能を見て「先見の明がなかった」とか「なぜ改良しなかったのか」などと仰るようです。

しかし筆者は輸送上の理由から帝国陸軍はやむを得ない選択をしたと考えています。その理由を以下に示したいと思います。


と、その前に。

近代国家には予算というものがあります。予算の範囲を超えて行動する事は出来ません。つまり、予算を考えない夢物語ではどんな事も可能ですが、実際には予算の縛りがあり実現したくても出来ない事のほうが多い、という現実をお忘れなきようにお願いします。

もっとも戦前の日本では、予算の節約以上に資材の節約の方がさらに強く要求されたので、それもお忘れなく。

なお、九七式中戦車がディーゼルエンジンを搭載していたことに関してディーゼルエンジンは重くて出力が低い欠点がある、と思われがちですがこれは単純にディーゼルエンジンのせい、とは言い切れません。

ガソリンエンジンと比較すると、ディーゼルエンジンは燃料噴射系を高圧にする必要があり、これに耐えるだけの構造にする必要から同一仕様のガソリンエンジンとディーゼルエンジンを同一水準で製造するとディーゼルエンジンの方が重くなる傾向は確かにあります。

しかしこの傾向は、燃料噴射系の圧力による変形に対して寸法公差の管理を厳密に行うことができれば目立たなくなります。戦前の日本の工業水準だと、ディーゼルエンジンを製作するには技術や経験の不足から変形に対する寸法公差を大きく見込むしかありませんでした。

なので、重くて出力が低い事についてはディーゼルエンジンの欠点、というより戦前の日本の工業力の限界が原因であると、お考えください。もし、発動機をもう少し小型化出来ていたならば比熱容量が小さくなりますから、始動性も良くなっていた事でしょう。


まず戦車を設計するに当たり、輸送できることは必須条件です。 ( 当たり前 ) 

軍オタの方々の中には戦車などの輸送をどうするか討論する時、水上交通機関を語り始めて戦車揚陸艦や港湾施設 ( クレーンなど ) をもっと整備すべきだったと結論づける方がいらっしゃいますが、工場や基地、戦場は必ずしも海沿いにあるとは限りません、工場や基地から港湾まで、若しくは戦場まで輸送できる陸上交通機関も必要です。

当時の日本では、陸上交通機関として鉄道が使われていました。自動車が普及しておらず道路の整備が後回しにされた事が大きく関わっています。国道ですら舗装されていませんでしたし。 ( 自動車が普及していない時代に国策として、輸送時間的に有利だった鉄道の整備を優先していた事もあります。 ) 

野砲にしろ兵隊にしろ、鉄道で輸送するのが一番有利だったのです。

こういった事情があった為、帝国陸軍は鉄道省 ( 戦前の官庁。公共企業体である日本国有鉄道、所謂国鉄は昭和24年発足。 ) が新規に敷設する線路の整備方針に対して横槍を入れたりしていました。

例えば、弾丸列車計画 ( 戦後、新幹線として結実するアレです。 ) の計画時には有事に変電所を攻撃されても簡単には運行不能ならないよう、電化区間を抑えるように要請しています。


上記を読んだ貴方は、なぜ道路を整備しなかったのかと憤慨しましたね ? 

日本における自動車の普及率は、資料が容易に見つかる昭和 30 年代終わり頃ですら世帯普及率 10 パーセント、台数にして 300 万台程度です。戦前であればもっと台数も少ないことでしょう。

戦前の時点で、世間一般にも自動車がそれなりに普及していたのは、米国だけです。

自動車の普及を阻んだ要因として、当時の自動車は価格が高いうえに、運転が難しいものでした。

所謂クラシックカーを所有しておられる方であれば分かると思いますが、始動からして大変で、今みたいに鍵一本でセルモータを回し、正確なタイミングでプラグがちゃんと点火して一発始動...とはならず、クランク棒を使って始動します。

失敗するとプラグがかぶって始動できないとかならマシで、最悪だとケッチンくらって骨折する事もあります。 ( セルモーターがなかった訳ではありませんが、当時の自動車の電装系は貧弱でしたのでクランク棒でも始動出来る技術がないと乗り回せません。 ) 

プラグだって今ほど性能が良い訳ではないので、頻繁な点検と交換が必要だったようです。特にかぶってしまった場合、発動機からプラグを外して掃除せねばならない事もあります。

 ( 余談ですが、当時、国産プラグの品質が余りにも悪かったからか、国内産業育成の為に性能が悪くても気動車用の発動機に国産を採用していた鉄道省ですら、プラグだけは独ボッシュ社製のプラグを指定していた、という逸話があったりします。 ) 

運転するにも当然 MT しかなく、シンクロメッシュなんてものも付いてないのでダブルクラッチで上手に転がさないと、すぐにエンストです。 ( クラッチに至っては、純粋な AT は戦時中に米国のメーカーにおいて開発されています、日本に入ってきたのは戦後の事で、戦前には存在していません。 ) 

こういう状況を知っていれば、自動車を運転できる人が少ないので自動車が今の様に普及するとまでは考えられないでしょうし、普及しそうにないのであれば誰も自動車整備工場やスタンドを整備しようとはしません。

そうなれば、陸上交通機関として既にある程度は整備されている鉄道のさらなる整備を優先しよう、と考えるのは自然な事です。

戦後、急速に道路が整備されたのはワトキンスレポートの影響が最も大きいでしょうが、自動車が上記のような扱い辛さが改善された上で安価に量産されるようになり、ワトキンスレポート発表以後も自動車の台数が急激に増えていったという事実も、また道路整備に影響を与えたと言えるでしょう。


鉄道で戦車などを輸送する際の貨車は、所謂自衛隊機材輸送列車をご存じな方なら推測できると思いますが、長物車 ( 屋根無しの平べったい荷台の貨車 ) と無蓋貨車 ( 屋根無しでアオリ戸がある荷台がある貨車 ) です。

ここで、当時の鉄道で使われていた貨車の形式を調べてみましょう。

当時の貨車として、長物車の一つに「チキ 1000 形」が、無蓋貨車の一つに「トラ 1 形」があります。これ以外にもありますが、九七式中戦車を乗せられるほどの貨車ではないので割愛します。

チキ1000 形は 1929 年に登場した日本初の鋼製荷台を持つボギー車で、全長 12.8m、全幅 3.35m。形式の「チ」は長物車 ( Timber、木材 ) を、「キ」は積載荷重 25t 以上 ( チキ 1000 形は 35t 積み ) を表します。

トラ 1 形は 1927 年に登場した日本初の 17t 積み二軸車で、荷台の有効寸法は長さ 8.13m、幅 2.48m。貨車そのものは全長 8.93m、全幅 2.74mで、形式の「ト」は無蓋車を、「ラ」は積載荷重 17〜19t を表します。

ここで、先ほどの九七式中戦車の全幅を思い出してください。トラ 1 形の場合、荷台に対して 0.15m の差しかありませんね。チキ 1000 形に至っては差が0.02mです。

積込時の誤差を考えれば、九七式中戦車は条件が許す限り幅を大きくしていたのです。


じゃあ貨車をデカくすりゃ戦車もデカく出来たろ、というのは問屋が卸しません。

鉄道には線路があり、その上を列車は走行します ( 当たり前 ) 。走行する車両は、予め設定された「車両限界」の制限を超えない大きさとします。この車両限界が関係しています。

鉄道が陸上交通機関の主役であった事は先に述べました。日本では、鉄道省の線路があれば、私鉄の線路もありました。

旅客の場合は駅で乗り換えてくれましたが、貨物は乗り換えてくれません。ですから貨車は鉄道省から私鉄へ直通運転するのは普通の事でした。 ( いわゆる軽便鉄道とかは別ですが。 ) 

車両限界は、現在の法律では「鉄道に関する技術上の基準を定める省令第六十四条」により、各鉄道事業者が設定する事になっていますが、1987 年 4 月 1 日付で廃止された地方鉄道法では、私鉄の車両は全幅を最大 2,744mm とするよう規定されていて、それに合わせて橋梁、隧道、ホームなど構造物は作られていました。

なので、大きくしてしまってはイザという時に私鉄線内が運べないんですね。

改修すればいいと思った方、平時に戦車の為だと言って、無数にある橋梁、隧道、ホームを全て改修出来る程の予算が組めると思いますか ? 


橋梁はまだ良いですが、隧道を事前にもっと大きく掘削するとなるとこれまた大変な話で、今現在の技術でも、隧道は極力小さく、かつ不利な地層がある場所は短く掘削するものだったりします。 ( 無理をした鍋立山トンネルのカオスっぷりは、トンネル技術者の間では有名 ) 

なので、どこの隧道も車両限界に抵触しないギリギリの範囲で掘削してある訳です。

手元に資料が無いので断言できませんが、中央本線や身延線、飯田線などのいわゆる狭小トンネルも考慮すると、横方向だけではなく高さ方向の制限もかなり厳しかったのではないでしょうか。


じゃあ装甲を厚くすること位は出来たろ、というのも問屋が卸してくれそうにありません。鉄道と言うからには線路がある筈です ( 当たり前 ) 。その線路には実は「線路種別」という規格がありました。

現在は線路等級と呼ばれる線路種別ですが、鉄道省では特別甲線、甲線、乙線、丙線、簡易線と分かれ、軸重 ( 1軸辺りの重さ ) は特別甲線、甲線、乙線が16t、丙線、簡易線に至っては12tと設定されていました。

トラ 1 形に九七式中戦車を 1 両積載するとして、九七式中戦車の自重が 15t、先ほどのトラ 1 形の自重が 9.5t、足すと 24.5t ですね。これが全体の静荷重です。トラ 1 形は二軸貨車ですので、2 で割ると、12.25t。単純に言えばこれが軸重となる訳です。チキ 1000 形に九七式中戦車を 2 両積載したとしてもほぼ同じ程度の軸重になります。 ( 実際には積荷である九七式中戦車の固定方法や積載方法の都合上、1 両のみの積載だったようです。 ) 

省線でも地方幹線では多少余裕がありますが、田舎の閑散路線では丙線規格である事が大半ですので、軸重的に見ると、実は多少無理をしていたのですね。 ( それ以前に、重量的には問題なくても貨車荷台の剛性の問題があります ) 

ですから、これ以上の装甲強化なぞ、望むべくもなかったのです。


それなら線路を強化しろ〜と憤慨して見てもどうにもなりません。橋梁や路盤はすべて線路種別の規格に基づいて設計されている訳ですが、それを強化したところでその下にある地盤の地耐力 ( いわゆるN値 ) が耐えられるだけの数値でなければ、意味がないのです。

意味がないどころか、線路がとんどん地盤沈下します。 ( 線路が沈下すれば列車は脱線してあの世へ GO! ) 日本列島は欧州大陸と比べたら、地盤が緩いのです。

例えば東日本大震災で液状化を起こしたネズミーランドがある某市の場合、海岸近くの埋立地では GL 面から -50m でやっと N 値がそれなりに出るようです。某市ほど極端な例ばかりではありませんが、日本で都市が発達してるような場所は大体、地盤があまり良いとは言えないローム層か沖積層です。

地盤改良や杭打ちで数値を改善出来ますが、今と昔を比べれば技術的限界のレベルが違います。それに地盤改良は工法にもよりますが現在の技術でも GL-20m から 30m 程度までしか改良出来ないと思って頂いて結構です。

正確には、頑張れば GL-80m から 100m 程度まで行けますが、施工方法と実際に施工できる地盤の組み合わせが限定される、地盤改良が完了するまで年単位の時間が必要な場合があるなど、さまざまな制限があります。


貨車の車輪を増やせば重量分散出来ると言っても、今度は貨車を牽引する機関車の問題が出てきます。貨車 1 両あたりの重量が増えてしまう事、走行抵抗が余計に増えてしまう事から、日本にはありがちな急勾配を登れなくなってしまいます。

登るためには貨車の両数を減らす、もしくは機関車を本務機以外に補機を連結するなどの対策が必要になります。

本務機、補機というのは、本務機が列車本来の機関車、補機が補助的に連結される機関車を指します。要は、機関車を何両か連結する方法です。ただし、この方法でも完全に問題が解決する訳ではありません。

なぜならば、連結器の強度に限界があるからです。力学を考えれば分かりますが、勾配区間では貨車や機関車の重量が、線路と勾配の下側にある連結器の両方にかかります。あまり無理に貨車を連結していると、何かの拍子に連結器が破損してしまうのです。

この連結器の件で有名なのが走り屋ご用達、碓氷峠での一件でしょうか。詳しくは割愛しますが、碓氷峠というのは鉄道にとっても険しい道です。ここを信越本線が通過していましたが、この区間をアプト式から粘着運転へ切替えるべく試験している最中に、連結器が破損した事故がありました。

これが原因で、所謂「横軽対策」が行われる事となりました。


上に記載した事が戦前での日本における鉄道輸送時の制限ですが、これは道路であっても同じことで、線路をアスファルト舗装へ読み替えればほぼ同様です。 ( 未舗装道路の場合は、路盤を砕石舗装へ読み替える。 ) 

知ってますか ? 道路の舗装や路上にあるマンホールの鉄蓋は、通行する車両の重量によって必要強度が決まっています。

 ( 港湾関係や防衛省関係では、舗装などの必要強度が桁違いだったりします。さらに、地面に埋まっているマンホールやハンドホールの鉄蓋や本体は強度やダメージコントロール、防諜の観点から汎用の国交省規格品ではなくて、専用の仕様のものが用いられる事があります。 ) 


最後にとどめを刺すわけではありませんが...もっと大きいクレーンを整備していれば、と簡単に仰る方がいますが、これも一筋縄には行かないもので例えば船で前線に近い海岸まで九七式中戦車を運んできたはいいが、残念なことに船にクレーンがないので、仕方なくクローラクレーンを使って九七式中戦車を船から陸揚げするとしましょう。

多くの方は、クレーンのつり上げ能力にのみ捉われがちですが、実際には吊り上げる重量以外にブーム長さ、作業半径などを検討してクレーンが倒壊しないか検討が必要で、15t の物を陸揚げするならば条件によりますがつり上げ能力 50〜200t 程度のクローラクレーンが必要になりますし、クレーン以前に大量の鉄板をクローラクレーンの下に敷かなくてはなりません。

持ってくりゃ良いじゃん、と思った方、本体とブーム、カウンターウェイトを分解しないと移動できない、組み立てるのに最低でも1日がかりのクレーンをそうおいそれと簡単には移動してくる事はできません。大型のクレーンを搬入する時は、小型のクレーンを使って中型のクレーンを搬入して組み立てて、その後、中型のクレーンを使って大型のクレーンを搬入して組み立てたりします。 ( そもそも戦前、戦時中の時点では現地で丸太を切り出して三脚デリックを組み立てて頑張っていたのではないかと思われますが、そこはご愛嬌 ) 


あとがき

という訳で如何だったでしょうか ? 

以上が、戦前の戦車は輸送上の制限からやむを得ない選択をしていると考えている理由です。はっきり言って、戦車揚陸艦や港湾施設以前に陸上交通機関の限界があるのです。

ちなみに、戦後に 61 式戦車という鉄道輸送を考慮している戦車がありますが、鉄道輸送できるのは国鉄の、それも地方幹線くらいのレベルでないと輸送できません。それも条件のあう長物車 ( チキ 7000 形など ) を用いた場合の話です、もっと自由に鉄道で輸送できるように考えるのであれば、大きさや重量を九七式中戦車程度にするしかありません。

鉄道輸送を前提とした場合、インフラの発達した現在でも大きさや重量の問題は解消されていません。ですので、検証する事もなく「先見の明がなかった」と批判するのは早計です。

ただ、やむを得ない事情が有ったとはいえ...インフラ面の整備が追付いていないが故に、結果として尊い戦車兵の人命がいたずらに失われた事は、大変残念な事です。

今後、このような残念な事が起こらない様、願うばかりであります。


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